- 勉強の質は、勉強の量に比例しない
多くの人が、勉強は「やればやるほど身につくもの」と考えています。実際に学校などでも、そのような指導をする教師がほとんどです。また、ある資格試験に合格するには「最低でもこのくらいの時間は勉強しなければならない」といった話もよく耳にします。つまり、勉強の質と量は比例するというのが一般的な見方です。しかし実際には勉強の質は勉強の量に比例しません。
量ではないと聞くと、「ただがむしゃらにやっても意味がないのだ。自分の勉強法が悪いのだ。もっと要領よく身につける方法があるに違いない」と考える人がいます。しかし、勉強に近道はありません。要領よく勉強しようとするならば、それはむしろ悪い方向へ向かってしまいます。
そもそも、勉強の「質」とは何でしょうか。一般に言われる量をこなせば身につくという考え方は、テストで点数を取るため、試験に合格するために暗記をして知識を詰め込むことを指しています。しかし、そうして詰め込んだ知識は単なる知識の断片にすぎず、やがてすべてを忘れ去ります。また、知識は単に持っているだけでは何の意味もありません。得た知識をしっかりと咀嚼し、自分のものとして消化・吸収し、それらを使って人として善く生きるために、他者や社会の幸福のために、考え・行動して初めて、知識は生きたものになります。質の高い勉強とは、単なる暗記で知識を詰め込むことではないのです。
勉強をしても身につかない人の典型は、頭の良し悪しではなく、「何のために勉強をするのか」が自身の中に根付いていない人です。多くの人が「私は世の中のため、人のために勉強している」と口では言いますが、実際は自己顕示欲や世俗的な欲を満たすために学んでいることが少なくありません。また、欲がなくどれほど善良な人であっても、厳格に生きていなければ身につきません。
では、厳格に生きるとは、どのような生き方なのでしょうか。それは、常にぎりぎりのところに立って歩き続けることです。山歩きで、目指すべき山の向こうには理想郷があります。しかし、そこに辿り着くには、一歩でも踏み外せば谷底に転落し命を落とすであろう細く長い尾根を、細心の注意を払いながら歩き続けなければなりません。それでも、その先には人間の理想郷が待っているのです。だからこそ、一歩一歩、何があってもその道を歩き続けるのです。
その道にあるものは、人類共通の道徳規範であり、目指すのは本当の人類愛の実現です。人類愛が自らの血の中に流れている人は、その険しい道を歩いていけます。なぜなら、その人にとってそれは進むべき唯一の道であり、当たり前の生き方だからです。
学問・学術を行うことは、絶対的な愛を行うことと同じです。すべての学問は、人間社会の幸福のためにあり、その道を歩くことは生きることそのものであり、学ぶことは生そのものなのです。
道は最初から存在しています。わずかですが幼少期からその道の存在に気づき歩く人もいます。多くの人は気づくことができない、もしくは、気づいてもそのように歩くことができません(簡単な道、広い道を探します)。しかし、結局のところ、その道を進めるかどうかは自分次第です。自分のためだけに生きるのか、それとも他者のために生きるのか。そして、今経験している一秒一秒を厳格に刻めるかどうか。人間は常に、毎日の一秒一秒において試されているのです。
「今日の学び」に記す内容は、すべて生井利幸先生より日々賜る学術講義に基づき、弟子の私、竹内差世がまとめております。
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