【今日の学び】死を考えることは、生を考えること

死を考えることは、生を考えること

 身近な人が亡くなると、人は誰しも悲しみに暮れます。しかし、同時に、人間の心は理性的存在者としての究極の状態、人間としての生を考えるにあたっての最高の状態になります。人は身近な人の死を前にすると、死について考えます。そして、自らの生き方を見つめ直し、人として正しく生きなければならないと考えるのです。
 死を宣告されると、普通は平常心ではいられないものです。死は誰もが必ず通る道であり、いつかは自分も死を迎えると分かっていても、いざ「あと数か月の命です」と余命宣告されると簡単には受け入れられません。この世を去ることを潔く受け入れることができないのです。
 死を容易に受け入れられない理由は、この地球上に物質的なものを所有しているからです。死ぬときにはボールペン1本ですら持っていけないと知りながら、何かを所有しているとそこに未練が残ります。物だけではなく、残される自分の子供などもそれにあたります。
 しかし、人間はもともと自然から生まれました。太古の昔、生命体は水の中で誕生し、そこから枝分かれし進化を遂げていったのです。そして、その水を創ったのも、この地球を創ったのも人間ではありません。ノーベル賞を取るような学者や世界的な教養人と呼ばれるような人が、最後は聖書に返るという理由はこの辺りにあるのでしょう。進化論と聖書の創世記の記述に何ら矛盾はないのです。自分の意思で生まれてくる人はいません。英語では「生まれる」を”be born”と受け身で表現します。命は自分で得たものではなく、与えられたものなのです。そして死ぬということは再び自然に、創造主のもとに還るということであり、死は生の延長線上にあるのです。
 死は誰にでも必ず訪れます。避けることはできません。それがいつなのかは誰にも分かりません。20年後なのか5年後なのか、それとも3か月後なのか。もしかしたら明日かもしれません。今日まで元気にしていても、明日癌が見つかるかもしれません。突如事故にあうかもしれません。明日があるという保障はないのです。だからこそ、毎日、死について考えます。死について考えると、いかに生きるべきかが見えてくるからです。一秒たりとも無駄にしてよい時間はないと分かるからです。
 誕生日に年に一度、ケーキを食べます。人生を八十年とすれば、八十回ケーキを食べると生を終えることになります。そう考えると、一人の一生などあっという間です。
 未来は未来にやってくるのではなく、迎える一秒一秒の積み重ねが未来をつくっているのです。現実に存在するのは「今」しかありません。今を最高の時間にする。それしかありません。

「今日の学び」に記す内容は、すべて生井利幸先生より日々賜る学術講義に基づき、弟子の私、竹内差世がまとめております。

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