生井利幸先生から、日々、多くの耳学問(注)を教授いただきます。それらは、一般的な学校では学べないこと、教科書にも記されていないことです。本ページでは、それらの学びの一端を「今日の学び」として、少しずつご紹介して参ります。
(注)「耳学問」とは、大教室でテキスト通りの方法で学ぶ方法ではなく、学習者が直接、教授者から、「難しい学問について、学習者にとって最も妥当な方法で学ぶ方法」を指します。
決めたことを続けることが一番難しい
「健康のために毎日運動しよう」「上手になるために毎日練習しよう」「毎日少しずつ勉強しよう」・・・。このように、自分で何かを決意して始めた経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。人は皆、「自分を改善・向上したい」「より善く生きたい」と願い、そのための方法を考え、実行を決意します。そして最初のうちは、決めたとおりに行動します。ところが時間が経つにつれ、ほとんどの人がそれを途中でやめてしまいます。しかし、この“自分で決めたことを毎日続けられるかどうか”が、その後の人生を大きく左右します。
偉大な発明家トーマス・エジソンは、「天才は1%のひらめきと99%の努力である」と言っています。ひらめきは誰にでもあるものではありませんが、努力は自分次第です。つまり、自己実現できるかどうか、自分の望む人生を歩めるかどうかは才能の有無ではなく「決めたことを続けられるかどうか」ということにかかっています。ビジネスの世界でもスポーツの世界でも、何かを成し遂げている人は、継続的な努力を積み重ねている人です。反対に、どれほど立派なことを言っても、それを行動に移せない人、続けられない人は、何も達成することはできません。
一生の間に認識・経験する範囲は、通勤経路ほどの狭さでしかない
人間は、生まれてからこの世を去るまでに、数えきれないほどの経験を積み重ねます。幼少期は、両親や親戚、近隣の人々との関わりから始まり、学校に入ると、学校生活を通じて交友関係や社会的なつながりが広がっていきます。やがて社会人となり、さらに多くの人と出会い、仕事や生活を通じて経験の幅が広がります。そして晩年、自らの人生を振り返ったとき、実に多くの出来事があったように思えるでしょう。
しかし、実際には、一人の人間がこの地球上で認識・経験できる範囲は、人類が歩んできた歴史や広大な宇宙空間に比べれば、家から会社までの通勤経路ほどの狭さでしかないのです。つまり、人間は極めて限られた範囲の中で物事を考え、判断しているということです。このため、自分の理解や判断が「正しい」と思っていても、それはしばしば勘違いや思い込みに基づいているのが現実なのです。
私たち人間は、毎日さまざまなことに直面し、その都度、感じ、考え、判断しながら生きています。その際、前述のことを念頭に置いて、「自分は間違っているかもしれない」と少し立ち止まり、より視野を広げて落ち着いて考えるなら、よりよい方向へとつながるのではないでしょうか。
人間の気づきというものは、猫の目ほどの狭い気づきでしかない。 (生井利幸公式サイト「今日の言葉」より)
時間とは、あってないようなもの
「時間とは、あってないようなもの」、生井先生はそう教授されます。いったいどう意味なのでしょうか。
「今」は確かに存在します。今この瞬間、息をして感じて考えている自分自身がここにいます。
では「過去」はどうでしょうか。分かりやすく言えば「昨日」、ほんの少し前のことです。記憶として残っているため、あるよう思えます。しかし、実体としては存在しません。理論上「過去に戻る」という話はできるかもしれませんが、実際に戻ることはできません。
次に「未来」。例えば「1時間後」「明日」はやってくるように思えます。1か月後、3か月後、1年後、3年後・・・、自分は生きているだろうと考えます。未来はあるように思えます。しかし、それは人間の勝手な思い込み、妄想にすぎません。1時間後に大地震が起きないとは限りません。家を出た瞬間に隕石が落ちてくるかもしれません。今は健康でも、1か月後に治らない病気が見つかるかもしれません。明日が来る保障は、どこにもないのです。
緊急事態は日常的に起こり得るもの。人間はその狭間で生きています。生きていられることは決して当たり前のことではなく、むしろ幸運なことなのです。だからこそ、今ここに自分が存在していることに感謝し、今のこの瞬間を大切に精一杯生きる必要があるのだと思います。
明日ではない。本日のこの瞬間において生きていられること自体が奇跡である。 (生井利幸公式サイト、「今日の言葉」より)
人は「嘘」が好き
「一日にたった5分これを聴くだけで英語がペラペラになる」「半年で劇的に英語力が身につく方法」「寝ている間にお金が増える」「1万円を1億円にする方法」――こうしたフレーズは街のあちこちに溢れています。人は「簡単な方法がある」と聞くと喜びます。冷静に考えれば、そのような方法は存在しない、即ち「嘘」だと分かるのですが、人はつい信じてしまうのです。
言い方を変えると、人は「都合のよいこと」「心地よいこと」「望んでいること」を言うと寄ってきて、逆に「都合の悪いこと」「耳の痛いこと」を言うと離れていくということです。つまり、人は嘘を好み、本当のことを言われるのを嫌がります。
ここで少し考えてみましょう。あなたにとって都合のよいことばかりを言う人と、嫌なことでも本当のことを言ってくれる人――どちらがあなたの真の幸福や成長を願っているでしょうか。
親は自分の子に対して、嫌がられても「悪いことは悪い」とはっきり言います。時には厳しく叱ることもあります。しかしそれは、子をを心から愛し幸せを願っているからです。このことは、他人との関係にも同じように当てはまります。
もしあなたの周りに、厳しいことを言ってくれる人、本当のことを言ってくれる人がいるなら、迷わずその人についていくべきです。その人こそが真にあなたのことを考えてくれている人だからです。多くの人は「良くない」と思うことがあっても見て見ぬふりをし、心の中で笑っているだけです。なぜなら、口にすれば関係が面倒になることが多いからです。逆に、都合のよいことばかり言う人は、あなたのためではなく自分の利益のためにそうしているのです。そのような人には一時的に人が集まるかもしれませんが、やがて必ず離れていきます。
人に対して本当のことを言うのは、決して容易ではありません。私自身、それができているかと問われれば、胸を張って「はい」と答えることはできません。それでも、心の中で笑ってやり過ごす人間であるよりも、本当のことを言える人間でありたいと思います。「本当のことを言っても離れずにいてくれる人がいるなら、その人とは仕事でもプライベートでも、かけがえのない本物の関係を築ける」と、生井先生は言われます。
最後に、先生が常に教授される言葉を紹介します。
Truth will out. (真実は自ら露見する)
これは世界の教養人が共有する考え方であり、文明・文化を超越した普遍的な真理です。人に何かを伝える時、この言葉を思い出したいと思います。
「分不相応のお金を手にすると、後に大変な思いをする」
「お金はあればあるほどよい」「できるだけ多くのお金を労せずして得たい」と考える人は少なくないでしょう。 しかし、生井先生は、「分不相応のお金を手にすると、後に大変な思いをする」と言われます。以下に具体的な事例を挙げます。
(事例1) 飲食店の契約社員として働いていたAさんは、あるとき正社員に登用され、それまで月給22万円だったのが急に36万円になりました。Aさんは、自分がお金持ちになったような気分になり、見境なく浪費してしまいました。
(事例2) 芸能界で子役スターとして活躍していたBさんは、子役時代には超売れっ子で、自宅から撮影現場まで運転手付きの車で送迎されていました。ところが大人になると仕事が激減し、やむなく一般の仕事に就くことになりました。しかし現実は厳しく、子役時代との落差は天と地ほど。相当な苦労を経て、今では自分が運転手をしているそうです。
(事例3) 両親が大金持ちだったCさんは、普通の人が必死に働いても得られないほどの大金を、毎月のお小遣いとして受け取っていました。その結果、Cさんの周りには金目当ての人々が集まり、最後には犯罪に手を染めてしまいました。
お金は本来、多くの苦労を重ね、自分が流した汗の対価として受け取るものです。若い時に労せずして大金を手にすると、金銭感覚が麻痺し、結果的に大変な思いをすることになります。「分不相応のお金を手にすると、後に大変な思いをする」、言い方を変えると、「収入は自分の品位・品格に見合ったものであること、分相応であることが望ましい」という意味なのです。
最後に、先生から若い人へのメッセージを贈ります。「若い時に苦労してやりくりした経験は、自らを成長させる肥やしになる」
「なりたい人」になるには、「なりたくない人」を見る
人は誰しも、「もっと自分を改善・向上したい」「理想とする人に近づきたい」という願望を持っています。そしてその願望を叶えようとするとき、多くの人は理想とする人物を見て、その人のようになろうと努力します。
しかし、生井先生は、「理想の人に近づくには、理想の人を見るのではなく、理想とは反対の人、つまり、なりたくないと思う人を見るとよい。」と教授されます。いったいどういうことなのでしょうか。
理想の人というのは、そこに至るまでに、他人からは見えない相当な努力を積み重ねてきた結果の表れです。そのため、いくら結果だけを観察しても、理想に近づくための具体的なヒントは得られません。仮にヒントが得られたとしても、簡単に真似できるものではありません。
一方で、「なりたくない人」を観察すると、「そうならないためのヒント」が満載です。つまり、「なりたくない人がしていることを、しないようにする」――これこそが、理想に近づくための現実的な方法だと、先生は言われます。
例えば、痩せたいと思うとき、スレンダーな人を見て憧れるよりも、太っている人の生活習慣をよく観察し、その人がしている習慣をやらないようにする方が効果的です。また、品のある人になりたいと願うとき、上品な人を真似しようとするより、「あのようにはなりたくない」と感じる人の言動を反面教師にする方が、自身の振る舞いを確実に改善することができます。
「なりたくない人を見る」、これは決して誰かを批判・否定するためではなく、他者の姿を通して自分自身を見つめなおし、自身の改善・向上のための気づきを得るための方法なのです。
今日からぜひ、スーパーで買い物をするとき、電車に乗るとき、街を歩くときなど、日常の中で「理想の人」を探すのではなく、「なりたくない人」を探して、よく観察してみてください。きっと、さまざまな気づきが得られるはずです。
所有欲を捨てると幸せになれる
生井先生は、作家として、世の中に向けて本質的なメッセージを発信し続けていらっしゃいます。その1つに、次の言葉があります。
“死ぬときは何も持っていけない”と知りながら、死を迎えるその日まで所有欲に支配されるのが人の常。 (生井利幸公式サイト、「今日の言葉」より)
今、私たちの周りには、甘い誘惑の言葉が溢れています。「10万円を1億円にする方法」「楽をして稼ぐ方法」・・・。そして、多くの人が、本質的な言葉よりも、こうした甘い言葉に惹かれ、安易な道を探し求めています。
しかし、生井先生は、そうした“普通の人が選ぶ道とは逆の道”を選ぶことで真に幸せになれると、「物質的な欲を手放すことで、目に見えるもの、経験するものすべてが自分のものになる」と教授されます。
先生のアメリカ時代の知人(学者)に、書斎を整理せず、いつも地味なスーツを着て、大学の研究室や図書館などで仕事をされていた方がいらしたそうです。先生ご自身は、図書館では学生に話しかけられるため、ご自宅の書斎で一人で仕事をされることが多かったことから、ある時、先生はその方に「私は自分の書斎で仕事をした方が落ち着きます」と言われたところ、次のように答えられたそうです。「仕事をしている場所が、私の書斎なのです。図書館が私の書斎です。」
もちろん、生活するために、社会の中で生きていくために必要なものはあります。何も所有してはいけないということではありません。しかし、少し立ち止まって自分自身を振り返ったとき、所有欲にとらわれて要らないものを沢山持っていないでしょうか。
最後に、先生の言葉をもう一つご紹介します。
不要なものを持たない人こそが、最も豊かに生きれる人である。(生井利幸公式サイト、「今日の言葉」より)
世の中は謝罪で成り立っている
話し方の達人としても知られる生井先生は、「世の中は謝罪で成り立っている」と言われます。わかりやすく言えば、資本主義経済社会においては「謝罪の仕方がお金の流れを左右する」ということです。先生が企業の社長や役員から講演を依頼される際には、「謝罪の方法を内容に含めてほしい」という要望が多く寄せられるそうです。その対象は、営業の第一線で長年経験を積んできた部長職や課長職の方々とのことです。
ここで、少し具体例で考えてみたいと思います。ある会社の取引先のA社とB社がそれぞれ問題を起こし、両社の営業部長が謝罪に訪れました。以下がその謝罪内容です。A社とB社のどちらの謝罪に好感が持てるでしょうか。
A社の謝罪:
「このたびは、XXの件で大変ご迷惑をおかけいたしました。全社を挙げて対応しておりましたが、本当に申し訳ございません。ただ、弊社の担当が御社のために連日徹夜で取り組んでいたことは、どうかご理解ください。」
B社の謝罪:
「このたびは、XXの件で大変ご迷惑をおかけいたしました。すべては弊社の力不足、管理不足が原因です。担当も真摯に受け止めております。二度と同様のことがないよう管理方法等を見直しいたします。本当に申し訳ございませんでした。」
A社の謝罪は一見丁寧に見えますが、よく読むと弁解が含まれており、「徹夜で取り組んだ」という言葉は、相手への配慮というよりも自社の事情を理解してほしいという自己保身の意図が感じられます。相手によっては、「だから許してほしい」と受け取られかねません。一方、B社の謝罪は、一切の言い訳をせず、全面的に非を認めたうえで、信頼回復に努めようとする誠実な姿勢が伝わってきます。
生井先生は、「謝罪を行うときは、謝罪に徹すること」が重要であると言われます。謝罪が必要な場面では、できるだけ早く謝罪すること。実際の謝罪では、相手に対して深く頭を下げ、誠心誠意謝罪することが大切です。これはビジネスに限らず、ご近所付き合いやプライベートにおいても同様です。謝罪の言葉に少しでも言い訳や自己保身が混じると、それはもはや謝罪とは呼べず、相手に不快感を与え、かえって信頼を損なうことになります。
「コミュニケーションの真髄は、心と心の交流である」「言葉は、自分の目の前の相手を幸せにするために使うもの」・・・これは、先生の基本の教えの一つです。謝罪もコミュニケーションの一つ。誠意をもって相手の心に寄り添うことこそが、真の謝罪なのではないでしょうか。